老子道徳経の読み方【第一章】 現代語訳 後半 紹介 ◆日本道観出版局◆
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早島天来著 『定本「老子道徳経」の読み方』
第一章 現代語訳『人の道は固定したものではない』後半を、ご紹介いたします。
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一章 現代語訳後半 人の道は固定したものではない
人間は古代ギリシャの時代から真理を求め、多くの哲学者がいろいろな学説を打ち立ててきたが、はたしてその中に真理といわれるものがあっただろう か。偉大な哲学者といわれるカント、ヘーゲル、マルクスにしても然りである。宗教も然り。今日世界で起きている紛争の多くが、宗教がらみであることを見て も、その説く道の虚しさが分かるだろう。
よく「老子は道徳も常識も否定するのか」という人がいるが、これも間違いだ。老子の思想を実践する道家には、否定はない。固執しないことが大 切なのである。道家では、これを「我執を放かす」という。人間は何事もこだわるから苦しくなるのであって、執着を捨てれば人生は楽しくなる。
「名の名とすべきは……」は、道が分かればもう説明するまでもないだろう。名とは“言葉”という意味もあるが、名にしても言葉にしても、人間がいて初めて存在するものだ。道の対句として受け止めればよい。
「無名は天地の始め……」は、万物の生々を説いたもので、「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」(四十章)という、老子の「無の思想」を表現したものだ。
有であることをとことん突きつめていくと、その先は未知とか無限とかしかいいようのない世界になる。その無こそが、万物の生々を司る根源であり、そして、有はまた常に無に戻ろうとする働きがあるとするのが、老子の説く「無の哲学」だ。
もともと無であることを知れば、これほど楽な生き方はない。無所有、無我執、無差別という老子の思想は、こうした有無を同根とするところから 生まれている。この有無が渾然とした世界が「玄」だ。玄とは「玄関」の意味で「玄のまた玄」は夜空のような限りない深さを示し、そこから万物が生まれてく る。
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